「人を叱る」ということ。 | 京都プランナー日記

「人を叱る」ということ。

「人を叱る」ということを考えるときに、いつも思い出す出来事がある。

4年以上前の話になるが、当社ではじめての新卒女性スタッフが存在した。日夜私の直属部下として企画書やディレクションを頑張ってくれていたのだが、いかんせんキャリアがないので七転八倒。それでも笑顔を忘れずに努力していたスタッフだった。

あるとき、それは人間ならば誰でもあるであろうレベルなのだが、態度が非常に雑な日があった。指示を出しても的確に動いてくれず、むしろ話を聞いていない。当然その日の企画書のパフォーマンスは低いものだった。

この態度が恒常化するとすれば、このスタッフのキャリアは非常に不味いモノになってしまうだろうと思った私は、その日の夜、全身全霊を込めて叱った。気持ち・態度がダメであるから企画書のパフォーマンスが落ちる。感情に左右されるような仕事は仕事ではない。会社は遊びの場ではなく、共通目的のために相互努力をする場なのだから、存在する以上は態度から改めろ、とそんな話をした記憶がある。

いつもはその後笑顔を見せる彼女に、その日笑顔はなかった。

そして、その日は彼女の誕生日だったと、後で聞いた。

自宅と会社の丁度中間にある大通りで一人涙する彼女を見た、という話を聞いたのも後日の話だ。


スタッフが誕生日の予定を気にしていたのかどうかはわからない。
問題は、その状況を全く理解していなかった私にある。


それ以来、私が人を叱るというときに必ず意識することは、「100%叱るべきだ」というシーン以外ではその行為を行うべきではない、ということだ。

それが誕生日であっても何であっても、仕事以外の何かに起因するものが考えうる場合は、少なくとも精魂を込めて叱ることは避けるべきだ、ということだ。

間違いなく10:0で悪い、そしてそれが恒常化すると非常に不味い。「叱る」ということはそういった時にはじめて行うべきであり、それ以外は注意で良い。それで十分に改善はなされる。


「叱る」という行為は、「100%正しい」という状況以外では決して良い方向には行かない、本当に難しいスキルである、ということを常に肝に銘じているつもりだ。



それでも、誤ちを繰り返す。「思い出す」ことと「行動に落とし込む」ということの間に存在する高すぎる壁に、今脱力感と猛省の念を強くしている。