「逝去」。 | 京都プランナー日記

「逝去」。

以前取引があった方のご逝去を今日知ることになった。
年賀状をお送りしたところ、ご丁寧に会社の方から連絡を頂いて知ることとなった。

その方とは2008年に取引をさせていただき、当時の当社にとっては規模の大きい受注をいただいた。
約3年の付き合いだったが、コンプライアンスのしっかりした会社だけあり、非常にしっかりとした校正を返していただき、細やかな前後対応をしていただいたことをよく覚えている。

妻の実家近くに本社があり、長女がまさに生まれるその日に打ち合わせがあったために出産に立ち会えたことは、偶然にしては出来すぎたことだ。おそらく正常な記憶機能が続くうち、私はその日のことを決して忘れることはないだろう。その方に対する提案、その時の構成案とデザイン案。会社からのタクシーがなかなか来てくれなかったこと。出産後、義母と二人で王将で食べた日替わりランチ。(義母と二人で外食をすることは、今後もそうあることではないだろう。)
その方はそんな生涯忘れられない一日の、とても大切な一端に存在し続けている。

一度その方と食事をさせていただいたとき、そんなことを話したところ、嬉しそうに笑っていただいたことを覚えている。その方にも確か三人の娘さんがいる、ということだった。

子供の教育に関する教訓をいただいたような気もするが、あまり覚えていない。覚えているのは外国での数年間の生活時代に、現在の日本では少々法に触れてしまうような「いたずら」をしたエピソードだったりする。人間の記憶というのは教訓にならないことばかり残してしまうものだ。

「私は本当は、もっと若い時分にもう死んでいるんだよ」

食事中、ふとしたときにこのようなことを言ったその方のお話は、当然当時の私からすれば信じられない話だった。
今、早すぎる死について考えるとき、やはり何かあったのだろうか、と思いを巡らさないわけにはいかない。


毎朝5時に起床し、通勤電車で会社に向かう毎日だと聞いた。
帰宅は遅いときにはその日を回ったりすることも多かったようだ。
在職中に亡くなったとしたら、その方にとっての人生とは、ほぼ仕事とイコールだったのかもしれない。その方の生前が御多幸であったと信じているが、同時にそうであってほしいと祈る。


人は全て死ぬ。人に限らず生きるものは必ず死ぬ。

ただ、生きることと死ぬことは断絶していないのではないか、と最近思うことがある。

死ぬことは、生きること。生きることは死ぬこと。

どのように生きるのか、ということはとりもなおさずどのように死ぬのか、ということにもつながるような気がする。

御厚情をいただいた故人の冥福を祈り、次に「生きること」に対する己の甘さを反省し、より良く生きることを考えていきたい。